【シャイン:研究の軌跡】生い立ち~強制的説得(洗脳)の研究
エドガー・H・シャインは「組織文化」「キャリア・アンカー」などの概念を構築したことで知られる、組織やキャリアに関し多大な研究業績を残してきた人物である。
その研究内容は社会学、人類学、社会心理学という複数の領域の相乗効果を生み出していることで高く評価されている。また、研究活動とともにはアメリカをはじめ世界の多くの組織に対し、組織文化や組織開発などのコンサルティングを行ってきた。
なぜこれほど幅広く、学際的に研究業績を残すことができたのか。それは20世紀の国際情勢の激動の影響を受けた生い立ちや、到来した好機を逃さず建設的に活かす姿勢が大きく作用していると思われる。何しろソ連やチェコに居住した後に米国へ移住するという少年時代を過ごし、後の業績につながっていくとはいえ初期の研究テーマは朝鮮戦争における捕虜兵士の強制的説得(洗脳)だったのである。
本稿では主に『キャリア・デザイン・ガイド』(金井壽宏 白桃書房)『日本のキャリア研究』(金井壽宏・鈴木竜太編著 白桃書房)に所収されているシャインのキャリア・ヒストリーに関する解説を要約しながら、シャインの研究の軌跡についてたどっていく。
シャインの研究者としてのキャリア初期の業績に、朝鮮戦争で捕虜になった兵士の強制的説得(洗脳)の研究があり、これはその後の研究の多様な発展にも大きな影響を与えた。では、なぜそうした研究対象と出会うことになったのか。そこにはシャインの次々に異なる文化で生活した生い立ちや、そこから身に付けたメンタリティが関わっている。
多様な文化のなかで生きた幼少期
1928年、シャインはスイスで生まれた。父親はスロバキアに住んでいたユダヤ系ハンガリー人でチェコ市民だったがチューリッヒ大学で博士号を取得して物理学者になり、当時は学位を取ったチューリッヒ大学に勤務していた。
その後、1933年に一家はソ連に移住した。その頃、ソ連は国家の科学振興のために若い学者を海外から雇用していたのである。しかしスターリンの時代が到来し、1936年にチェコへ逃れた。さらに、ドイツにおけるヒットラーの台頭で、1938年に一家はアメリカに移った。シャインの父はシカゴ大学でフェローシップを得て、10年後に同大学の正教授となった。
父親が学者であったことと、20世紀前半における世界の激動のなか、子供時代に複数の国に住み、多様な文化に触れたことは、シャインに大きな影響を与えた。
幼いときから次々と異なる文化圏へ移り、そうした中でも自分らしさを失うことなく新しい文化に適応するなかで形成された「亡命者メンタリティ」が、文化の解読や社会化、支援に対する深い関心に関わっているとシャインは自己診断している。
心理学で博士号を取得
大学は父の勤務するシカゴ大学に入学し、当初は父親と同じく物理学に関心を持ったが著名な物理学者、エンリコ・フェルミの授業で落第しそうになったのを契機に、他に関心のあった心理学へ方向転換。大学院はスタンフォード大学に移り、集団圧力やリーダー格の社会的影響力というテーマの実験で修士論文を書き上げた。
さらにその後、博士号取得を目指す場としてハーバード大学大学院の社会関係研究科を選んだ。ここには心理学のみならず、社会学や人類学の巨匠とされる学者が揃っており、学際的なプログラムにシャインは魅力を感じたのである。
ハーバードでは、社会心理学にどっぷり浸かりながら、同時に臨床心理学や社会学、人類学への造詣も深めていった。その頃、つまり1950年代の初期はまだ米国でも徴兵される可能性があったため、大学院の2年目に陸軍臨床心理学課程をとった。これをとることによって博士号取得まで実際に軍務につくことはなく、士官の資格と給与を得ることができた。これは一種の奨学金で、後に陸軍への御礼奉公があった。
シャインはハーバードと陸軍のプログラムの両方から1年間の臨床インターシップを必修として課せられ、この履修要件を満たすためにウォルター・リード陸軍研究所でインターンとして過ごし、ここで博士論文のデータが集められた。博士論文は修士論文の延長線上にあり、知覚の課題で集団が個人に与える影響を調べたものだった。この研究は心理学の一流雑誌に掲載され、シャインの学会デビュー作となった。
捕虜の強制的説得(洗脳)の研究に取り組む
ハーバードで博士号を取得したあと、シャインはウォルター・リード陸軍研究所の社会心理学・精神医学分野の研究員になった。ここはハーバード大学の社会関係研究科と同様、非常に学際的な機関であり、加えて現実の問題に対応するために実際的だった。
ここで研究に取り組んでいたさなか、シャインは突然、軍から電報を受け取った。
「海外派遣のため、48時間以内にトラビス空軍基地に急行されたし。派遣目的は、目的地に向かう途上で説明の予定」
文面はそんな内容で、シャインは米西海岸の基地から東京、そして韓国へと派遣された。
電報に先立って、アメリカと北朝鮮・中国の間で停戦協定が結ばれ、捕虜交換が行われることになっていた。本格的な捕虜交換の前に疾病・傷病捕虜に限って予備的な捕虜交換が行われていたが、多数の兵が捕虜として収容されている間に細菌戦争などありもしない偽りの証言を相手当局に促されるまま行っていた。今でいう「洗脳」が実施されているらしいという状況だった。
そこでシャインに与えられたミッションは、洗脳された人たちにいったい何が起こったのか、どうすれば帰国後、アメリカ市民としてうまくやっていけるのかを調べることだった。後にシャインが「強制的説得」と名付けた研究テーマが、まったくの偶然で与えられたのである。
強制的説得の実態の解明は、それまでの模倣や社会的影響力に関するシャインの関心と完全にマッチしていた。捕虜になって以降、いったい何が起こったのかについてシャインは聴き取り調査を開始し、後に論文として発表された研究成果は注目を集めた。
(構成:宮内 健)
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